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第4話 飾りの後継者

Author: 6jay
last update publish date: 2026-09-15 20:59:41

悠真の言葉に、紗月の手が一瞬こわばった。何でもないように笑い、小さな手を握る。「悠真、ただ通りかかったおじさんよ。気にしないで、ゆっくり寝よう。ね?」「うん、ママ」悠真は素直にうなずいて布団をかぶった。それでも瞳の奥には、大人に負けない聡さが残っていた。紗月は息子が眠るまで、唇を引き結んでそばにいた。――絶対に奪わせない。あの人には、あなたを渡さない。歯を食いしばって耐えた5年だった。怜司に求めるのは、悠真を救うためのドナー検査と財団の承認だけ。それ以外は何一つ、彼に許すつもりはなかった。***同じ頃、鷹宮医療センター本館12階のVIP応接室。大きな窓の向こうに東京の街を見渡せる、最上級のスイート仕様の部屋。怜司は革張りのソファで脚を組み、秘書室長の持ってきた支援対象児童の書類をめくっていた。「今期申請の48人について、認知検査、推薦状、保護環境を総合的に検討し、5人を優先面談の対象に絞りました」一番上には、赤い「緊急治療優先」の帯をつけたファイルが挟まっていた。怜司が名前を確かめようとしたとき、応接室のドアが開いた。室長の報告に、怜司は表情を引き締めた。「成績がいいだけの子を探しているんじゃない。慣れない環境でも自分で判断できて、長期の後継者教育に耐えられる子だ」冷たい言い方に、室長は小さく頭を下げた。そこへ、ブランド物のワンピースで着飾った黒崎麗奈が、勢いよく入ってきた。手には高級バッグと分厚い推薦状を持っている。「怜司さん、まだその面倒な養子の書類を見てるんですか?」麗奈は愛想よく笑って近づき、ソファの肘掛けに手を置いた。「うちの病院財団の理事の甥に、本当に賢い子がいるんです。わざわざ素性も知れない孤児や庶民の子を迎えなくても、うちの親戚から……」「麗奈」怜司は書類から目も上げずに遮った。冷えた声に、麗奈は言葉を失う。「俺の後継者選びに、おまえの家を入り込ませるな。もう一度余計な口を出したら、婚約解消の書類に署名するぞ」「れ、怜司さん……私はただ、お手伝いしたくて……」麗奈が不満そうに身を引くと、怜司はドアを指した。***麗奈が怒りをこらえて出ていくと、怜司は疲れた眉間を押さえ、窓辺に立った。12階からは、1階の中庭につながるガラス張りの温室ラウンジが見える。そこで医師や保護者に囲まれている、患者衣姿の子どもが目に留まった。袖をまくった、4歳ほどの男の子だった。子どもは難度の高い立体チェスの詰め問題を、無表情で見下ろしていた。駒が動くたび、周囲の教授たちが身を寄せ合う。30秒もたたないうちに、子どもは手順を組み直し、黒のキングを倒した。たいしたことをした、という顔さえしていない。駒を置いたあと、子どもは目まいがしたのか、テーブルの縁につかまった。そばの看護師が肩に毛布を掛けると、大丈夫というようにチェス盤を片づけ始めた。その目元と、顎を少し上げる癖に、怜司は幼い頃の自分を見た。心臓が急に強く打った。窓枠に手をつき、低く尋ねた。「あの子は……誰だ?」

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    輸血室のドアが閉じても、紗月の言葉は変わらなかった。「勘違いしないで。あなたは今、悠真を助けられるドナーにすぎません。許可された手続きだけに従って。これで許されるなんて思わないでください」怜司は濡れた袖をまくり、うなずいた。「わかった。悠真に必要なことから進めてくれ」午前3時、怜司は成分採血室のベッドへ横になった。悠真はガラスの向こうの小児輸血区画にいる。紗月は両方が見える位置で、説明を聞いた。「実の親でも、そのまま輸血できるわけではありません。ABO・Rh、不規則抗体、HLAの適合性を確かめてから、血小板の成分採血を行います。採取した製剤は交差適合試験と放射線照射を経て、悠真くんへ投与します」教授の説明を聞き、怜司は同意書を受け取った。「どれくらい、かかりますか?」「緊急手順でも2時間は必要です。ドナーの安全限界を超えることはできません」「その範囲で、できるだけ早くお願いします」看護師は名前と生年月日を再確認し、両腕の血管を調べた。「唇や指先がしびれたら、すぐに教えてください。めまいがしても、我慢してはいけません」「わかりました」ガラスの向こうでは、紗月が同意書の控えを握っていた。「一度でも隠したら、すぐに止めてください。悠真を助けるために、ドナーまで倒れさせるつもりはありません」怜司は短くうなずいた。両腕に太い針が入り、成分採血装置が低く動き始めた。血液から血小板だけを分離し、赤血球と血漿を体へ戻していく。冷たい血液が戻るたび、怜司の唇がかすかに震えた。指先がしびれると、我慢せず看護師へ伝えた。看護師はすぐにカルシウムの補充速度を上げ、血圧を測り直した。「教えてくださってよかったです。引き続き、隠さないでくださいね」ガラス越しに、紗月と一瞬目が合った。彼女は褒めず、目もそらさなかった。ただ、今度は医療スタッフの言葉に従っていることを確かめていた。向こうでは製剤バッグのラベルと悠真のリストバンドが何度も照合された。やがて放射線照射を終えた血小板製剤が、ポンプを通って悠真の静脈へ流れ始めた。紗月は開始時刻を手帳へ記した。小児科の教授は、最初の15分はアレルギー反応と発熱を重点的に観察すると説明した。紗月は息子の手のひらへ指でチェス盤を描き、呼びかけ続けた。「悠真、ママの声、聞こえる? 白のキングは、どこへ行けばいい?」目

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    冷たい秋の豪雨が、救命救急センター前のアスファルトを打っていた。他の国立病院から運ばれる予定だった放射線照射済み血小板製剤。その専用救急車が、首都高速の多重衝突事故に足止めされ、間に合わないとの連絡が入った。医療チームが示した安全な猶予は、残り4時間ほど。紗月は傘も持たずに外へ飛び出し、濡れたまま電話に叫んだ。「先生、悠真の血小板が2万を切ったんです! 別のヘリでも何でも、飛ばせませんか? お願いです……息子を、助けて……!」だがドクターヘリは、強風警報で運航を止めていた。紗月は道路管制と輸送責任者へ順に連絡し、車の位置を確かめた。救急車は事故現場の手前から動けず、迂回路も塞がれていた。担当教授もスピーカーフォンで同じ説明を聞いた。『待っていたら、いつ投与できるかわかりません。今は院内採取のほうが早いです』最後の選択肢まで塞がれ、紗月は膝から崩れた。雨水のたまったアスファルトへ座り込む。5年前、成城の門の前でも、同じ雨音を聞いた。あのときと同じように、一番必要な瞬間に道が閉ざされる。「悠真……ごめんね。ママ、守ってあげられなくて……」泣き出した耳に、雨水を踏む革靴の音が近づいた。顔を上げると、濡れた濃紺のスリーピース姿の男が、足元へ膝をついた。鷹宮怜司だった。濡れた路面に両膝をつき、深く頭を下げた。「紗月……俺が悪かった。許されないことをした」差し出された防水ファイルには、成分採血の同意書と、提供を理由に親権・面会交流・養子縁組審査で権利を主張しないという確認書が入っていた。「許してくれなくていい。俺は適合ドナーらしい。必要な成分を採って、悠真に使わせてくれ。引き換えに、何も求めない」5年前、紗月がすがった場所に、あまりにも似ていた。怜司は顔を上げられず、肩を震わせていた。紗月はその頭を見下ろした。膝をついたからといって、5年が消えるわけではない。濡れた髪を耳へかけ、口を開いた。「それで私の5年と、父の命が埋め合わせられるとでも思った?」雨音の間に、紗月の声がはっきり響いた。「あなたの涙で、私の5年は消えない。でも悠真を助けられるなら、医師が必要だと言う分は、すべて出してもらう」怜司はすぐにうなずいた。「ああ。今は悠真のことだけ考えてくれ」立ち上がりかけて、一度足を滑らせた。紗月は助け起こさなかった。代わりに、救命救急セン

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    血液の検体を預けてから1時間後。激しい雨を突いて走ってきた黒いセダンが、成城の本邸の前に止まった。濡れたまま怜司が中へ入ると、静江はリビングで紅茶を飲んでいた。「怜司、こんな夜中に、その格好は何? どうして雨に濡れているの。みっともない」何事もないような声だった。怜司が近づくと、静江はようやくカップを置いた。「母さん」低く押さえた声が出た。「5年前のあの夜、なぜ紗月の父親の治療を止め、人工呼吸器を外せと命じたんですか?」静江は一瞬こわばったが、すぐに鼻で笑った。「そんなことのために、この夜中に騒ぐの? あんな素性の知れない女が鷹宮家の女主人に収まろうとするから、芽を摘んだだけよ。父親の命綱でも断たなければ、二度とあなたから離れないでしょう」治療の中断を命じた事実を、隠す気すらないらしかった。怜司は歯を食いしばった。「その女が身ごもっていたのは、誰の子だと思いますか?」コートから参考鑑定の結果と桐生の供述書を出し、テーブルへ投げた。紙がカップに当たり、床へ散った。【父子関係の確率99.9999パーセント/非公式・参考検査】「あの子は……俺の息子です!」怜司の声が、初めて大きくなった。「5年前、母さんが消そうとした子です。今日、麗奈に点滴を引き抜かれたあの子が……あなたの、たった一人の孫なんですよ!」「な……何ですって?」静江の手から落ちたカップが割れた。自分が排除しようとした子が、鷹宮家唯一の孫だと聞き、顔から血の気が引いた。「なら、なおさら連れてこなさい。鷹宮家の血を引く子を、水瀬紗月なんかの手元に置いておけるはずがないでしょう」怜司はしばらく目を閉じた。「子どもの命より、家の体面が大事ですか?」「あなたには子どもができないというのに、誰があの子をあなたの子だと思うの。私は家を守ろうとしただけよ」「診断書を改ざんした人間へ送られた金は、母さん側の口座から出ています。本当に何も知らなかったんですか?」静江は答えず、目をそらした。怜司は最初から録音を続けていた携帯電話を、テーブルへ置いた。「あなたの欲と、その身勝手さが、紗月と息子の人生を壊しました」静かなリビングに、言葉が重く響いた。「家の名で隠してきたことも、すべて捜査機関に渡します。俺も知っている限り、何も隠さず取り調べを受けます」録音は止めなかった。母が最後に

  • 後継者に選んだ天才児は、五年前に捨てた彼女との実の息子でした   第20話 呼吸器を外せと言った人

    佐伯がUSBメモリを接続すると、5年前の10月14日、深夜0時頃の録音が再生された。機械の雑音の向こうから、32年間聞き慣れた冷たい声が流れた。静江の声だった。『病院長ね? 集中治療室にいる水瀬紗月の父親、今すぐ鷹宮グループの治療費支援を全額止めなさい。人工呼吸器も外して』『奥様、あの患者は呼吸不全です。呼吸器を外せば30分ともたず、窒息死します! 殺人になります!』『人聞きの悪いことを言わないで。どこの馬の骨とも知れない女が、怜司につきまとっているのよ。父親の命綱を切ってやらないと、二度と近寄らなくならないでしょう。いいから、今すぐスイッチを切りなさい!』通話が終わっても、誰も口を開けなかった。静江は紗月を排除するため、治療の中断を直接命じた。死との因果関係には鑑定が必要だとしても、どんなつもりだったのかは、この音声だけで明らかだった。「母さんが……本当に、こんなことを?」怜司は椅子の背につかまった。脚から力が抜け、立っていられなかった。家の秩序だと信じて従ってきた人間が、命を取引の道具のように扱っていた。紗月がなぜ自分を「人殺しの血」と呼んだのか、ようやくわかった気がした。彼女の話を聞かず、家で何が起きているか確かめる機会からも、目を背けたのは自分だった。――紗月、悠真……。悠真に残された時間は、もう12時間もない。その報告を読み直した。骨髄抑制も、出血の危険も増している。まず自分が適合ドナーかを調べ、必要な医療手続きをすべて受けるべきだった。結果と録音を持ち、怜司は立ち上がった。「俺が適合するか、すぐに検査してください。医療チームが必要と判断する手続きは、すべて受けます」佐伯は録音と集中治療室の電子記録を並べた。通話終了から17分後に支援停止のコードが入り、当直スタッフの反対意見も残っていた。「実際に呼吸器を止めたのは、医療スタッフなのか?」「治療費と転院支援が同時に打ち切られ、他院へ移れなくなりました。死亡との正確な因果関係は、捜査機関と医療鑑定で確認する必要があります」「俺が殺した」という一言で、すべての責任をまとめてしまうわけにはいかなかった。命じた者、実行した者、気づこうとしなかった自分。それぞれ明らかにしなければならない。「すべて検察へ出せ。紗月にも、原本の一覧をそのまま送ってくれ」佐伯は録音原本のハッシュ値と保管場所を、紗月の代理人へ同時に送った

  • 後継者に選んだ天才児は、五年前に捨てた彼女との実の息子でした   第19話 99.999パーセント

    アメリカのCLIA・AABB認証遺伝子検査機関から届いた暗号化PDFが、タブレットに開いた。画面に触れる怜司の指が震えていた。【緊急親子関係参考検査報告書】対象者1・父:鷹宮怜司(32歳/鷹宮グループ会長)対象者2・子:水瀬悠真(満4歳/患児)24か所の常染色体STRマーカー照合:全24座位で100パーセント一致。Y染色体の父系遺伝子:完全一致。解析結果:生物学的父子関係の確率99.9999パーセント。父子関係を強く支持する。99.9999パーセント。怜司は検体番号と採取時刻を病院の引き渡し記録に照らし、検査機関の医療責任者に確認した。「この結果を、法的な親子関係の確認に使えますか?」『いいえ。引き渡し記録に異常はありませんが、参考検査です。法的な効力を求める場合は、3人の同意の下で、新しい検体による鑑定が必要です』通話の内容も保存してから、怜司はタブレットを置いた。「悠真は……俺の息子だった」声が最後で割れた。5年前、紗月は同じことを言った。怜司はそれを聞く代わりに、偽の診断書と写真を信じ、すがる手を払いのけた。「俺が間違っていた。最初から、俺が……」執務室の床へ崩れ落ち、顔を覆った。一目で息子とわからなかったことより、気づく機会がありながら紗月の話を聞かなかったことが痛かった。病室で悠真に言われた言葉が、そのまま返ってきた。――おじさんの目は、怖がってる。怜司は結果をすぐ紗月に突きつけなかった。同意の範囲が限られた試料という制約は、はっきりしている。正式な鑑定は悠真が安定し、紗月が許可してからやり直すべきだった。佐伯にも、交渉や報道対応に使わないよう念を押した。「紗月さんから求められるまでは渡すな。親子であることを、治療の判断や面談を迫る材料にしてもいけない」佐伯は結果にアクセスできる人間を、怜司と法律代理人の2人に限定した。それでも、自分が間違っていた事実だけは先送りできなかった。怜司は報告書の表紙に「非公式・参考用」と記し、輸血部にドナー適合検査を申し込んだ。紗月に何から言えばいいのか、紙に書いては消した。すまない。騙されていた。知らなかった。どれも、自分のしたことを軽くしようとする言葉に見えた。最後には、白い紙だけがデスクに残った。そこへ、青ざめた佐伯が入ってきた。暗号化された金属製のUSBメモリを、そっと怜司の前に置いた。「会長……5年前のあの夜、成城

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